柳生新陰流の世界を探求

柳生新陰流とは

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柳生新陰流とは

柳生新陰流は、戦国時代に念流や新当流などの諸流の蘊奥を極めた上泉伊勢守信綱が、

特に陰流から「奇妙」を抽出して、「転(まろばし)」という理論を導き出し、

陰流を基にした新しい陰流ー『新陰流』を興した事に始まります。

元来伊勢守の兵法は、自分の身を守ると同時に、敵の生命をも尊重し、その生を断つことを嫌い、

ただその戦闘力を失わしむるを主眼としている為、伊勢守工夫の「転」の一道を以て、

敵が如何なる処より打ちかかるとも、まずその拳を切ることを練磨する方法を勢法(形)に示し、

後世に伝えました。

そしてこの理念を受け継いだ柳生石舟斎宗厳は、新陰流に「無刀の位」の工夫を新たに加えて、

「無刀」を根本として新陰流を再構築し、平和の剣としての完成度を高めました。

それが『柳生流(柳生新陰流)』です。

石舟斎の兵法は穏やかで謙虚な振る舞いを常とし、日夜稽古鍛錬工夫を怠らず、

己を律する求道的な剣です。それが戦国の世に我が身を修める「修身の剣」として、

人を殺す殺人刀(せつにんとう)から人を活かす活人剣(かつにんけん)へと変化させました。{術}

柳生但馬守宗矩は徳川幕府創設の功労者で、将軍家指南役という兵法者として最高の名誉を授かり、

柳生流は『御留流』や『御流儀』と呼ばれました。

但馬守は大目付として、一人の悪人を殺して万人を生かす「一殺多生」の剣を振るいつつ、

「殺人刀即活人剣」として平和な時代の武士の心構えを教えました。これは武術で

「人間形成」を導いたといえます。

戦国期の小乗的な我が身を修める「修身の剣」が、太平の世では大乗的に天下を治める「治国の剣」

になることを証明し、柳生新陰流兵法をもって新しい時代の人間の生き方を示しました。{道}

柳生十兵衛三厳は戦国時代から太平の世へと時代に応じて多様に変化する新陰流の根本とは

何かを深く求めて修行します。その為に将軍家光の御前を辞して世間の表舞台から姿を消し、

社会背景・時代背景を排除して、「純粋な剣術」を研究しました。

祖父や父の高弟を訪ね、尾張の兵庫助に学び、伝書類を研究し、そうして得た答えとは。

「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という様に、とどまることなく転変自在

千変万化する世の中で、本質を変えず時代に即応して形を変える「大自然」に立脚した剣、

『芸術の剣』としての兵法の確立です。{法}

『芸術』としての柳生流は「切らず・取らず・勝たず・負けざる剣」として『自由』と『平和』

を具現化しました。

そして、柳生新陰流兵法は剣術ですが、特に「兵法」と唱えるのには理由があります。

柳生流は単なる剣の技法だけでは無く、流儀の奥意に至りては、庶人これを学べば身を修め、

国君これを学べば国を治め、天子これを学べば天下を治むべき妙術が含まれているからです。

神君家康公が柳生流を学んで、格別にこの「兵法」を用いられて天下を治め、徳川家の子孫は

末々までもこの「兵法」を学ぶようにと上意されて以来、「兵法」と唱えるようになっております。

この兵法=妙術とは、柳生流の勢法(術)を錬磨することで、その中にある理論(法)を体現し、

奥義(転の道)へと至る道芸(術ー法ー道)だといえます。

柳生天狗堂は、その技法と心法を現代に受け継ぐべく、稽古・研究しています。

青岸(せいがん)の構え

青岸(せいがん)の構え

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